奥州道中 増補行程記   宝暦元年(1751年)

 御下り 橋を越候ては大沢町と申候 泥川ゆるく流れて水の色藍の如し 青樹川の岸に多く有之候 当所薪沢山のよし申候 赤山より出候て江戸えも参商買スト云々
此辺に杭有、紀伊殿かり場と書たり 大樹公ノ御殿也 町ノ中に御殿有りト承候 当所より赤山爪とて名物出申よし江戸にて賞スル之ヲよし承候 一里塚有ト可考 
江府通船多し 荒河橋長サ廿四間 此辺稲の苗なしらすと申スヲ植候と承候 御本陣 相田八右衛門 市神 神明と処ノもの申候 騎西郡 越谷 二里廿八丁 
小社有 茶店多し 浅間大明神 市神 神明と処ノもの申候 松 篭 見へたり 神宮有 セイ札 両町合十七八丁と申候



 日光道中分間延絵図  文化3年(1806)

江戸幕府の道中奉行所において数年にわたり精密な測量や調査を行い完成させたもの。大沢橋は高欄(欄干)付きの板橋で長さ18間 幅3間 
橋のたもとに高札場と稲荷と市神社が描かれている 往還廻リ道並松伏領道 大沢町 字大沢板橋 高札 御料所傍示杭 元荒川堤 野道 本陣 




西方村旧記 壱 挿入絵図  瓦曽根松伏末田久左衛門新田亀有溜井其他川筋絵図
  
西方村旧記 壱 (市立図書館所蔵) 挿入絵図(部分) 左側の古文書翻訳は鈴木秀俊氏提供



越後新発田より会津通江戸迄道中絵図 江戸後期

井上貫流家文書資料



越ヶ谷宿村絵図 時代不詳

左側に字境板橋(大沢橋) 右側に葛西用水に架かる上から地蔵橋と天嶽寺橋(寺橋)



越ヶ谷瓜の蔓  文化末年(1815)~文政初年(1820)

越ヶ谷町地誌「越ヶ谷瓜の蔓」 境板橋 長十八間 横三間 前ゝ横四間之所、安永年中より三間ニ成、

大沢町地誌「大澤町古馬筥」 大沢橋之事 越ヶ谷宿大沢町境板橋、元荒川ニ御掛渡シ御座候境板橋
は已前は大沢橋と唱ひ申候、長拾八間横四間之の処、安永五申年石谷備後守様御勤役中横巾三間
被仰付候、左右矢来百五間といふ事越ヶ谷宿手扣ニあり 




エミールギメの日光紀行記  明治9年(1876)

フランスの富豪エミールギメは日光旅行の途中で温鈍屋(うどん屋)で昼食をとる 同行したレガメーは越谷で4点の挿画を描いた 
大沢橋のたもとの稲荷社の階段に腰を下ろして車夫の米を研ぐ温鈍屋の女中 橋向こう側に市神社が見える 橋下に舟が浮かぶ 




迅速測図に見る大沢橋  明治13年(1880)

 陸軍参謀本部によって実施された広域測量の本格的な地図 大沢橋をはさんで日光街道沿いに商家が並ぶ 



元荒川及ヒ該川ニ架設シアル界大橋ノ断面(二百分一) 明治13年(1880)

何度も架け替えられた大沢橋 当時は木造りの橋 迅速測図 明治前期測量 2万分1 フランス式彩色地図 埼玉県武蔵国南埼玉郡越ヶ谷駅及び大沢町近傍村落 



越ヶ谷祭(久伊豆神社例大祭)の山車が大沢橋を渡る  明治40年代

久伊豆神社からの山車の引き回しで大沢橋を渡る 元禄時代から続く越ヶ谷町の盛大なお祭り 



元荒川の大水  明治43年(1910)8月 

関東地方は明治43年8月上旬から雨が降り続き、ついに荒川が決壊、東京をはじめとする関東各地で洪水の被
害が出た 大沢橋の上から不安そうに水量を見つめる大勢の人 橋の欄干部分が金属で出来ているのが判る 



越ヶ谷名所絵葉書(部分)  明治末年

大沢橋の両端が木立でうっそうとしている 元荒川に浮かぶ舟の上からの撮影で大勢の人が橋の上にいるのが判る 川面に人影が映る  




越ヶ谷案内  大正5年(1916)3月

越ヶ谷と大沢地区の案内を目的として発刊された「越ヶ谷案内」 巻頭に挿入されている略図



越ヶ谷名勝案内  昭和7年(1932) 

 大沢役場からの延長線上に続く現在の県道49号線(足立越谷線)はない 新地料理店の一角は江戸時代には大沢遊郭と呼ばれ奥州街道の名物に上げられていた。
「大沢橋から大蛇が出ても大沢通いはやめられぬ」という俚謡があり、元荒川の水は涸るる日があるとも大沢に芸妓酌婦の絶ゆる時はないのである、ともいわれた。
大正5年刊の「越ヶ谷案内」は、粕壁・岩槻・杉戸・吉川・草加あたりに比較し景気がいいと評し、多くの料理店や芸妓屋では連日三弦の音を絶やすことはない、という。



仮橋 大沢橋の架替え  昭和27年(1952)10月

 大沢橋の架け替えでつくられた仮橋を渡る 右側で木製の大沢橋の解体工事が進む 橋向こうは、蔵造りの町並みが続く大沢町 



完成間近の大沢橋  昭和28年(1953)4月

鉄筋造りに架け替えられ外灯と欄干も真新しい大沢橋 外灯と欄干の形が現在とは異なっている 橋の下で工事を行う人々



渡り初め式  昭和28年(1953)5月 

大沢町から越ヶ谷町方面を望む 子供達が日の丸を振って完成した橋を渡る 左側に火の見やぐらと半鐘が見え市神社の鳥居がある
土手づたいにも大勢の人が橋の完成を祝い集まる お祝いの紅白のゲートとちょうちん 左側は仮橋 向こう側は越谷町の蔵造りの家々
 



火の見やぐらから見た大沢橋(1)  昭和30年~40年代

 越ヶ谷町寄り元荒川土手伝いにあった火の見やぐらから大沢橋を見下ろし 大沢町~北越谷駅方面を見る



火の見やぐらから見た大沢橋(2)  昭和30年~40年代

越ヶ谷町寄り元荒川土手伝いにあった火の見やぐらから大沢橋を見下ろし 大沢町~北越谷駅方面を見る



火の見やぐらから見た大沢橋(3)  昭和30年~40年代

越ヶ谷町寄り元荒川土手伝いにあった火の見やぐらから大沢橋を見下ろし 大沢町~北越谷駅方面を見る



大橋  昭和34年(1959)

50年前の大沢橋を中心とした地図(部分) 現在も営業を続けている店がたくさん見られる 大沢橋が大橋と表記されている  



大沢橋に歩道橋を  昭和42年(1967)10月
 
 1日5千台が大沢橋を通過 旧国道上の大沢橋は大型ダンプのすれ違いがやっとで歩行者は危険にさらされていた 車に締め出された歩行者のため車道脇に歩道橋が完成  



大沢橋に歩道橋を取り付ける工事 昭和42年9月15日 広報こしがや




歩道橋の架設工事  昭和42年9月15日 広報こしがや



大沢橋近景  平成21年(2009)年1月 
 
大沢橋たもとの茶色の屋根の温鈍屋は、徳川家康が亡くなる1年前の元和元年(1615)創業という 遠方に北越谷駅前「パルテきたこし」の高層ビル(28階)を望む



東武伊勢崎線車窓より  平成21年(2009)年3月

元荒川の東武伊勢崎線架橋より走行中の電車の車窓から大沢橋の遠景 先の橋は足立越谷線(県道49号線)に架かる元荒川橋 









                                     大沢橋の交通ラッシュ(歩行者はらんかんから落ちそう) 昭和42年8月26日 埼玉新聞


















興亜桜の石碑

 
紀元二千六百年・昭和15年


 
寺橋(宮前橋)付近から大沢橋を越えて東武鉄道鉄橋付近までの元荒川両岸に記録では1500本を越える桜木を植えたという 写真は奥に大沢橋を望む


(表面) 興亜桜  (裏面) 紀元二千六百年 昭和十五年四月 興亜奉公日  賛助員として多くの個人と企業名が彫られている


増補行程記 盛岡市中央公民館
元荒川の大水 越谷市役所
越ヶ谷名所絵葉書 埼玉県立図書館
仮橋 完成間近の大沢橋 渡り初め式 埼玉県立文書館
大橋 東京観光交通社
    火の見やぐらから見た大沢橋 越谷市立図書館
大沢橋に歩道橋を サンケイ新聞

広報こしがや